高台厚から内に1〜3oの極薄い削げ有 見込が少し上がり気味で微かな凹凸有
(目立たず座りに影響無)
傷ではありませんが御確認戴きたい詳細
金縁は3割程残りほゞ薄くなっている
(下方に残る、違和感なく自然許容範囲)
金銀彩が少し薄くなっている部分多少有
(特に丘、鳥の一部)
極小ムシクイ・釉切・凹凸多少
極小灰振・釉切・クッツキ・凹凸・シワ多少
詳細はお問い合わせ下さい
創世記伊万里を初期伊万里と呼びます。
(1610年代)
初期伊万里のすぐ後、驚異的な技術進歩により日本初の色絵磁器、
古九谷が登場しました
(1640年代)
色絵は古九谷、染付古九谷を藍九谷、錆釉を吸坂と呼びます。
他に白磁・青磁・瑠璃は、古九谷の名称を上下いづれかに足し呼ぶ事も有ります。
古九谷の時代は、様々な技術や様式が生まれ、淘汰された興味深い時代です。
(1640年〜1670年前後)
なぜこの時代の伊万里が古九谷と呼ばれているのでしょうか?
半世紀程前迄古九谷は、石川県の焼き物、江戸時代の九谷焼と言われていました。
昭和20年代、古九谷と呼ばれる焼き物が、実は佐賀県有田で作られたものではないかという説が登場し、九谷説と有田説の論争が始まりました。「九谷論争」です。
有田説は、江戸時代、海外へ輸出された伊万里の古九谷との共通性にありました。有田説を支持する説が諸外国でも登場します。
その後、考古学的に生産地遺跡の発掘調査が双方で行われました。
素地の化学分析が行われた結果、有田説で終結しました。終結後も古九谷の名称は残りました。
ただ、その後も調査は続いています。
疑問点がまだあり、今後の研究により更に詳細が解明されればと思
います。世界に類のない古九谷独特な色彩、本当に興味深いです。
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