有田磁器の各様式について
有田磁器焼成は、有田西部地域で江戸初期の元和年間(1613〜1623)頃までに唐津陶を焼成した窯場で始まった。寛永14年(1637)に藩の管理と保護のもとに内山地区を中心に13ヶ所の窯場で磁器のみを焼成する有田皿山の制度が確立した。内陸部の有田皿山で産業的規模で生産された有田焼は、伊万里港から船積みされたことから、伊万里焼と呼ばれるようになった。
朝鮮半島形の製陶技術により生まれた初期の有田磁器は、1640年代終わり頃に導入された中国磁器製造技術導入後、有田で工夫されたハリ支えの技術の普及とともに、1650年代中葉までに中国形の磁器へとかわった。有田では、技術革新の成功により、中国磁器と同じ器形の製品や安定した上質の色絵の製品が、中国以外の国で初めて量産される事になった。
有田の高度な磁器生産技術は明末清初の混乱で中国磁器入手が不能となったオランダ東インド会社の代替磁器入手先として注目された。有田皿山では、万冶2年(1659)に始まる海外向け製品の大量の受注品の納入のため、素地と上絵付けの分業などの量産技術革新と制度改革が行われ、寛文年間(1661〜1672)に赤絵屋が赤絵町に結集された。
有田焼は、各年代の各消費地の需要と好みを反映して様々な特徴ある製品を作り出した。市場の変化が激しい時には、市場の多様な要求に合わせて、多様な装飾や技法の有田焼が生まれては消えて行った。消費地のニーズに合い、相当の期間に相当量の生産販売が行われた有田焼は、特徴ある製品グループを形成して、後にその特徴を表現した様式名をつけて呼ばれることになった。
江戸時代に生まれては消えて行った有田焼の様式の主な物の特徴について、様式の生まれた順序に従って年代名をつけて解説を行ってみた。
貿易磁器の様式
貿易磁器の器形・用途・意匠などは各時代・各消費地の好み・生活様式によって様々である。輸出初期の1660年代の東南アジヤ向けには荒磁雲龍門碗や芙蓉手皿、モカ向けコーヒーカップ、バタビア向け医療用品、ケンディなど国内向け製品と異なるものが生産された。1690年代中葉から始まるヨーロッパのシノアズリー趣味とボーセリンキャビネットの流行時には蓋付大壷・大皿。大鉢などの金彩と赤色を多用する染付併用色絵が量産された。貿易品は多く分けると実用品と装飾品があり、明確な様式区分は国内製品のように明確ではない。しかしながら、国内製品の様式の変遷、技術の変遷に伴い、文様・顔料・成形技術などの共通点から年代が特定できる。乳白色の柿右衛門様式と呼ばれる延宝様式の色絵は、初期貿易品に使われた顔料を淡色化して用い、乳白手の素地に延宝様式の空間を生かした非対称意匠が取り入れて完成されたものである
有田焼の輸出は中国船により1640年代中葉から、またオランダ船により1650年から始まっている。オランダとの輸出契約は1653年に結ばれたが、本格的輸出は1659年から始まり、1757年までの約100年続いた。その後は私貿易が1780年頃まで続いた記録が幕府に残っている。中国磁器の輸出は1650年頃から途絶え、1656年の海禁令、1661年から1683年までの遷界令により密貿易を除き正式には輸出はされていない。中国磁器の輸出は1684年解禁され、英国船によりヨーロッパまで運ばれた。有田焼は元禄末期までは中国磁器に対し、充分な競争力を持っていたが、インフレと輸入決済通貨不足のため価格が4〜5倍高騰し競争力を失ったこと、1720年頃からヨーロッパ諸窯で磁器焼成が始まった事より市場競争力を失い1757年に正式に私貿易品を除き輸出が終わり、オランダ東インド会社は1796年に解散し、オランダ船の来航は1855年をもって終わった。
初期伊万里様式
1610年代から1650年代前半まで焼成された朝鮮半島系の製造技術による最初期の有田磁器。陶石を粉砕・水洗い・分粉した原料を用い、高台の小さい厚手の陶器形の器形に成形する。呉須で絵付けする染付のほか、瑠璃・鉄・青磁釉などがあり、長石に木灰を混ぜた透明度の低い釉薬を掛け、連房式の登窯で高火度還元炎焼成を行う。意匠は、当時流行していた輸入中国磁器を写すものが多く、太筆を用いて輪郭線と濃みで絵文様を表現、吹墨・点描・掻き落しなどの技法が用いられた。
古伊万里正保様式
正保4年(1647)頃に有田で色絵焼成が始まる中国系の製造技術導入が行われた。最初期の色絵は、赤や染付で輪郭線を描き、赤・緑・黄を淡色で用い、中国天啓赤絵・南京赤絵・祥瑞赤絵などを手本とした。色絵の素地は、窯場による技術導入の時期の違いにより、初期伊万里様式のものと、中国磁器と同じ形の薄手のものがある。後者は、中国磁器製造技術導入後に現れた器形で、色絵のほか、さまざまな成形技術が導入され、ハリ支えなど有田独自の窯詰め技術の革新が行われた。有田磁器は、1650年の中葉までに朝鮮半島系の磁器から中国系の磁器へと替わってゆく。
古伊万里承応様式
色絵は急速に進歩し、承応弐年(1653)までに赤・黄に濃色の青・緑。紫色を用いる五彩手の色絵が完成した。五彩手のほか黒線描きの文様の全面を緑・黄・青色を塗り埋める青手などがある。色絵の意匠の線や地文を、黒色で描き、透明度の高い濃色顔料を塗る中国風の色絵は、従来古九谷と呼ばれていたが、1650年代を中心につくられた有田の色絵である。正保様式に多い染付併用色絵は減少し、高台内の二重圏線などが見られなくなる。糸切り成形の変形向付け類がこの頃から寛文年間まで大流行した。
古伊万里寛文様式
国内向けの磁器の意匠は、中国風のものから和風化し、染織などで流行した「ひいな形」の意匠が取り入れられる。色絵は濃色顔料を用いるもののほか、明暦年間(1655〜58)に始まる金銀彩を用いるもの、京焼の影響による仁清手など多様化する。地文は、赤の線描きで表す事が一般的になる。染付意匠は太線で絵画風に描き、墨弾き技法による製品が流行する。
1659年から始まった海外向け多量輸出に対応するために貿易品を窯焼と赤絵屋が分業量産する技術革新が行われ、新しい顔料を使用する輸出向け低コスト色絵などが量産された。
古伊万里延宝様式
寛文様式の和風の意匠は、洗練・簡素化され、余白を生かして主題を繊細で機密な線描きと濃みで表現するようになる。ロクロ型打ちを行い、口紅を塗る器形が増え、様式化した文様を口縁に描くものや、見込み五弁花が始まり渦福銘が流行する。色絵は、乳白色の素地に細線描きの輪郭線に、淡色化した輸出向け色絵の顔料を用い、洗練された主題を象徴的に描く、一般に柿右衛門様式と呼ばれる色絵が完成する。小型の高級品は素焼きを行い歩留を向上する技術が普及し、型紙張り、コンニャク印判技法が盛んになる。
古伊万里元禄様式
余白を生かし洗練された意匠を描く延宝様式に変り、中国風の文様と区画割りを複雑に組み合わせて、赤色と金彩を多用する染付併用色絵が現れる。器形はロクロ成形の単純なものが増え、器形よりも下絵、上絵による加飾が重視される。染付の技法は、ダミを用いる繊細なものから呉須を強く均一に塗るものにかわり、染付の上に金彩を塗る藍地金彩の技法は元禄金襴手様式の特徴である。輪郭線は、黒線描のほか金線描が増え、口縁の口紅に変わり金彩を施すものが増え、赤字塗り埋めの金唐草文様が流行し18世紀末期まで続く。
古伊万里宝暦様式
元禄様式の意匠文様は省略和風化され、飯碗・そば猪口など中級食器に取り入れられ、庶民の生活に広く普及する。清朝の影響による色絵素三彩の写しや、清朝意匠を描くものやロクロ陽刻型打ち装飾した製品が再び現れる。後者は白磁の陽刻部分を主文様とし、わずかに染付で意匠を描き口縁に口紅を行う特徴を有する。18世紀前半には白磁の釉薬は、失透性乳白手釉から透明釉にかわり、変形皿は長皿を除いて糸切り成形に替りロクロ型打成形が主流になる。
古伊万里天明様式
清朝の新しい影響により、広東碗形の食器、染付の新しい表現技法である「素書き」や白抜き意匠が流行する。染付の発色は茄子紺と呼ばれる深い青色が主流となる。色絵は、清朝粉彩の影響により、光沢の少ない黄・萌黄・青色などや盛り上がる様に塗るものが現れる。意匠の一部に漢詩を書くものや、厚手の成形の後、八角形に型打成形深皿・猪口が流行する。文様を白抜きで表わすものが増え和風の白抜き意匠には、白抜き部分を墨弾きで行うものが増える。
古伊万里化政様式
中国風の意匠は和風化し、広東碗形の碗類は有田では見られなくなり、変わっては端返り碗が流行する。染付大皿の流行が始まり、段重・盃洗など新しい用途の器形が増え、江戸風俗意匠の製品が現れる。色絵の顔料は、赤色は艶のある発色のものが主流になり、厚塗りの赤絵や白色、青色が現れる。染付の表現は、地を均一に塗り埋める白抜き意匠のものが引き続き多く見られるが墨弾きは減少する。
古伊万里天保様式
天保年間には、ヨーロッパへの輸出が再開し、幕末にかけて大皿・美術品・洋風食器が輸出された。国内向け製品では地図皿や変形の鉢、縁立ちの厚手の皿、足付きの盃洗、食籠や洋風の器形など新しい器形が流行する。鉢類では口縁をイゲ形に切るものやべべラ状にする厚手のものが目立つようになる。大皿・段重・食籠などには色絵が増え、赤色を盛り上げた赤地に金彩で描くシダ状の唐草文様が幕末から明治時代にかけて流行する。染付は前代の均一に塗り白抜きを行うものから線描にダミを行うものが増える。
2002年 10月 柴田明彦氏講演会より (老松古美術祭講演回参考資料転載)
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